『弘法筆を選ばず』 という諺があります。
意味を調べると次のような説明を見ることができます。
- 能書家の弘法大師はどんな筆であっても立派に書くことから、その道の名人や達人と呼ばれるような人は、道具や材料のことをとやかく言わず、見事に使いこなすということ。
- 下手な者が道具や材料のせいにするのを戒めた言葉。
弘法大師(空海)様はすごかったのでしょう。
私の亡くなった祖父は大工でした。
棟梁もつとめ、腕も良かったと聞いています。
実際、70歳手前くらいの時に田舎の家の台所約6帖一面の床を張り直す工事を、一人でしゃくしゃくと仕上げたのを子供心に感心しながら見ていた記憶があります。
台所の床下は土や石がごろごろした不陸。
図面もひかず、大きさもバラバラな自然石を用いた束石に高さが合うように長さを合わせて束柱を切って使用したものでしたが、その後15年たっても軋むことがなかったのが今でもすごいと思います。
寸法すら控える様子がなかったので、『数字を書かなくていいの?』と聞いた答えが忘れられません。明治男は怖いです。
『お前達は書くから忘れるんだ。書いて安心するから忘れるんだ。』
新入社員研修のイロハのイは 『 呼ばれたらメモをすること 』 なので、現在ではとても人には言えませんが、祖父がなくなって30年以上経つ今でもそのニュアンスは忘れられずに覚えています。
私が10歳くらいの頃から祖父から 釘 / のこぎり / かんな 等の使い方を教わっていました。
教えてもらうことはすごく嬉し方のですが、 釘を打ち損ねて曲げた / のこぎりがグニャっとたわんだ / カンナの刃を出しすぎて噛んだ などの度にキセルの先で頭頂部をカツン!です。
ガツン!じゃないんです。
頭頂部にキセルの金属先端の丸い一点が、釘を正確に打つ職人によって振り下ろすのでいい音がするんです。痛くないわけがない。まぁー痛い!
いいところにヒットすると目から火花を体験できました。
現在なら訴訟したら勝てますよ、きっと。
※でも、あんなに英才教育うけたのに生かせなくてゴメン、じいちゃん m( _ _ )m と盆になれば思います。
※私が職人にならなかったのは、雨が降れば仕事を休む左官職人だった父親を幼少時から見ていて「僕は勤め人になろう」と思ったからです(笑)。今では好々爺してますが。
祖父は道具を大切に保管されていました。
田舎の家は無人で空けていますが、今でも油紙に包まれた祖父の道具は現役さながらに眠っていることと思います。
そんな祖父が言っていました。
『 "弘法筆を選ばず"は嘘だ。弘法大師も使う筆を決めているから選ばないだけだ。あれこれ使おうとするからまともな字がかけないということだ。』
子どもの時には判らなかった意味が今では判るつもりです。
職人にならなかった今、道具よりパソコンを使う時間が長いです。
仕事をする = 生産する 過程で手にする道具というものは、例え文房具 / パソコンのアプリ / タブレット等のデジタルツール等であれ、素振りをするように何度も繰り返し使用して自分になじませることで、必要なときに機敏に自然に結果に活かせるようになるのだと思います。
それが仕事人として格好が良いことなんだと思います。
また、そうでありたいと思います。本当に。
(松浦)